昭和46年01月06日 朝の御理解



 御理解 第61節
 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をして行くのが、真の道を踏んで行くのぞ。金光大神が教えた事を違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」

 「神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ」と、「金光大神にいつまでも尽きぬおかげ」と言う事をね、これは、昨日おかげ頂きましたように、御神徳を受けると言う、いつまでも尽きぬおかげとはそう言う事。おかげを頂いて、あの時にはあんなにおかげ頂きよったけれど、この頃はもういっこうおかげを受けんようになったと言うものじゃない。
 ですからこれはいつまでも尽きぬおかげと言う事は、勿論あの世にも持って行け、この世にも残して置けると言うほどしの物を、自分自身としてはいついつまでも限りなくおかげを受けていけれる物、そう言うおかげの頂けれる話を残しておくとね。尽きぬおかげを話にしておくのぞと。そこで信心しておかげを受けたらとこう言う事はどう言う事かと言うと、ま今日今迄随分この御一節を頂きましたね、だからこのあらゆるまあ、角度から頂いたんですけれども。
 今日はまた新たな角度からお話いたしますから、どうぞまた61節と思わずに頂かにゃいけません、信心しておかげを受けたらと言うおかげはどう言う事かと。また教祖金光大神が話をして下さる、神より受けられたお話をして下さるその、第一になると言う所はどこかと、だから今日はここん所をあの、まあ少し根本としてのお話になる事と思います。今日御神前にあたくし出らせて頂きましたらね、「天地の子」と言う事を頂いた。「天地の子」。これは今(事務所)ですかね、信徒会館で出よります。
 小さい雑誌が出よりますね。あの(げん ?)の中にあの漫画が出よります。教祖金光様の、言わば生い立ちからずうっと、金光大神の御一生をまあ、漫画にして分かり易くしてある。もうその、事実を元にしてからの漫画ですからね、面白おかしゅう簡単に言わば分かるように、漫画が出ておりますね。その題が「天地の子」とありますね。皆さんもうお読みになってるから分かるでしょう。その天地の子ですね。いわゆる人は皆神の氏子であると言う風に説いておられるね。
 と言う事はどう言う事かと言う、またその言葉で言うと私し共は天地の子だと言う事なんですね。天地が親でありその子、私しなのです。いわゆる天地の子我、と言う事になるんです。私しはおかげを受けると言う事はね、そう言う間違いの無い大事実をね、事実として分からして頂く事だと思いますよ、ですからおかげを受けたら神ISとなりて、人に丁寧に話をして行くと言う事はね、「はあ、もうあん時にこういうおかげを頂いた、ここを助からん所をこう助けてもろうた。」
 そう言うおかげもさる事ながらね、そう言うおかげであったらね、もう数限りがないほどに頂いてもおろう、またそれは金光様の御信心ではなくてもやはり、奇跡的なおかげ、霊験と言うものがあるんだと。だから私しは金光大神が教えて下さる第一のもの、まあ第一ここは分かってくれよと仰るとこはそこだと思うんです、その自覚です、我天地の子としての自覚なんですね。そこから私しは信心が、そう言うおかげを頂く、そう言う事がわからして頂いた。
 その事をです、私しは話して行くのだと、人に丁寧に、私し共にはこの様に、絶対の親、間違いの無い親、それが天地であると言う事をです、丁寧に話をして行く。もう言うならば、あらゆる角度から、そこの所を話しをして行こうと思う。どこからどう考えてみても、なるほど天地の子であるあたくしどもと言う事にですね、その事を丁寧に話していかなきゃならない、ようここん所をね、やはりおかげを自分がおかげを受けなきゃ人には伝えられんと言った様な、事を申しますけれどね。
 そこの所の大自覚が出来る、我天地の子としての自覚が出来る。その事を丁寧に話して行く訳けなのです、言わばもうあらゆる角度からその事の事実をね、お話して行訳けです。それが「真の道を踏んで行くのぞ」とこう仰る。私しが真の道とはね、とにかく金光様の御信心では真とか真の信心とか、真の道とかと言う事を申しますね。だからその真の道と言う事をあたくしは、あの神様が下さると言うかね、ま言うならば自然に起きてくる事柄とでも申しましょうか。
 事柄事態と言うものを、これはそれぞれ一人一人に違うわけですよね。もう日々の中にでも、一人一人その一日の、いわゆる受ける事は違うのです。その事をね、私しどもが実意を持って、頂いていこうと言う姿勢ね、またそれを行じて、いわゆる合掌してその事を受けていくと言う事、その事が私しは真の信心とはそう言う信心だと言う風に申しますよね。いわゆる成り行きを尊ぶと言う事、成り行きを大事にすると言う事。いかに神様を大事にすると言うても。
 その神様自体の働き、神様のお働き、そのお働きそのものを大事にせずして神様を大事にしておるとは言えない。その働きを尊ばずして、神様を尊んでおるとは言えない。その時その時の自体、そこの所を稽古さして頂くと言う事がです、あたしは真の信心だと言うておる、事はね、あたしは今日の御理解を頂いて、またなおさらそうだなあ、と思わしてもらうんです。成程人に実意丁寧に話をして行くのが真の信心。どう言う事を話して行くのかと言うと、我天地の子であると言う事実をね、話して行く。
 そのあらゆる角度から話すその話の中にです、私しが言う、だから成り行きを大事にして行くと言う、だから成り行きを有り難く頂いて行け、尊んでいかなければならん、そこには神様を尊び、神様を大切にする事になるのだと言うのです。天地の働きそのもの、その働きそのものを合掌して受ける、降れば降ったで有り難い、照れば照ったで有り難い。お恵みとしてそれを受けて行けと言うのです。またはその天地の働きが大坪総一郎、あたくしの上に起きてくる。
 その起きてくるその問題をです、それは苦しい事もあるかもしれん、恥ずかしい思いをする事があるかもしれん。それを言うならば合掌して受けて行ける。その事が神様を言わば、丁寧に頂いた事になるのでありね、実意を持って受けた事になるのである、どんなに言葉を綺麗に言うても、真の信心とはあたくしそう言うしん、そう言う行き方を真の行き方と言い、また真の信心と言うんだという風にお話しておるわけですね。そこの所のね、あたくしあの修行が大事だとこう思う。
あれは、何年でしたでしょうかもう2、3年前の秋の大祭をさしてもらう時だったでしょうか。私し共の、3番目の娘ですね、直子が舞の御用をさして頂く、舞のおかげを頂いた。もうその時の舞はちょっと大変難しくて、舞う舞でしたからずいぶん久留米にも通いましたし、ここにも先生に来てもらってもうほとんど手を打ってしまった。もういよいよ明日大祭を控えてと言う時に、善導寺の教会に親教会にね親教会に、最後の仕上げをあちらの、この頃ご縁につかれました広子先生に見て頂いた。
 又私しは一言その、直子の稽古をひろこ先生がつけておつたり、その指導しておられるのを丁度その時にあたしがお参りし出したんですよ。して見せて頂いとったらね、「はあ、直子もようここまで覚えた」と思ったんですけれども、また広子先生の舞はまた素晴らしかったんです、教えながらこの、もうておられるのを見てから。ですから私しはあの、「はあーひろこ先生、明日の舞はあなたからもうて頂くわけにはいかんじゃろか」ちゅうたら、その事を大変喜んですぐ引き受けて下さった。
 どっこいところが直子の方です、長い時間かけてからようやくあがったというのを、ピシャッ、もう明日舞えない事になったわけです、もう折角もう一生懸命に言わば言うならば稽古をした、そしておかげでどうやらもう、明日は舞えると言うとこまでおかげを頂いて、最後の仕上げを見てもらっておる所で、あたしがそこに行き合せたもんですからね、広子先生の舞いは素晴らしい、折角お供えさしてもらうならば、素晴らしい舞の奉納をしたい。あたしの思いが、すぐ広子先生に申しましたら。
 そりゃよかどころじゃありませんとこう言われる。ところがその合点が行かない、承知が行かないのが直子なんです、そしたらしばらくしたら直子がおらんごとなりました、腹かいてから帰っとる、それからあたくしの方も、まあお願いをして帰らして頂きましたがちょうど勿体島の道路沿いの道を歩いてから帰りよるわけです。乗せていこうと思ってもこうしてから嫌だっち、それからようようやってから、ま帰って来た。それでその後にです、あたしは直子に、それを話すんですよ。
 折角あんたが一生懸命奉納さしてもらおうと思うて、舞いの稽古をさして頂いた、もう自分で自信が出来るほどしの立派に舞えるようになったら、先生の方がもっと素晴らしかった。先生大体高山先生でしたけれども、広子先生はもう直接の先生ではございませんでしたけれどね、もっと素晴らしかった。それでお父さんが、広子先生にお願いをしたと、広子先生もすぐに引き受けて下さった。言うならばです、自然の働きの中にそう言う働きが直子の上に起きたわけなんですね。
 しかしやっぱり難しい事であろう、「けれども直子さんね、あんたが今日の事を忘れずにね、お父さんが今言う事をね、あんたが心掛けて、このこれが信心だとあんたが分からして頂いたら、もう今日の事はあんたが一生一代の宝になるよ」とと教えましたね。あたくしが思うたよりも広子先生が舞いなさった方が、素晴らしいし神様も喜んで下さる、そりゃ折角あたしは稽古をさして頂いたけれどもです、あんたは止めてから広子先生にもうてもらえとこう言うた。
 その時の心の切り替え方なんです、受けると言う事は、成り行きを受けると言う事は、これはあたくしが舞うよりも神様が、まあ広子先生がもうてくれた方が、神様が喜んで下さるのであるからと、「はい」と素直にそれを答えよと、たったそれだけなんですけれども実を言うたら難しいです、だからね。それでその善導寺からここまで歩いてきた、参った事も歩いて帰って来た事もないでしょうけれども、とにかくもうそのかぁっときたもんですから、泣く泣くまあその善導寺からここまで歩いて帰って来たね。
 帰って参りました、その直子に私しがそう言う事を申しました。はあ本当人間の幸せな生き方と言うのはね、その時に「はい」と素直にね、それをもう「はい」と素直に聞けれる事なんです、と言う事は「はい」と素直にその事が受けれると言う事なんです。「それが信心なんだよ」と、言うてまたその事を本人が分かったか分からなかったか知らんけれども、あたくしはそう言う、その時に本当に残念だった、はがいかったと思うなと。その事がです、時に親先生が「あぁあたしに教えられた」その事をです。
 日常生活の上に頂いたら人間が幸せになれれるんだと頂いとったから、その生き方をもし身に付けて、直子がいよいよあか抜けしたものにしていったらです、もうこの様な素晴らしい生き方は無い、人間の本当の生き方と言うのはそれなんですね。折角稽古したけんいいやあたしが舞う、いやまわらんとしてもです、もうほんとにその非道だと、折角自分がこれだけ稽古しとるものをその、出させずに今までのが水の泡になった。成程その事は水の泡になるかもしれんけれども。
 その舞を会得したと言う事はもうその人にプラスになってるはずである。だからそれが明日晴れの場所である所の大祭に舞えなかったと言うだけの事。けれども私しの舞よりも神様の方が広子先生の舞の方が喜んで下さると言うならば、私しはいつでも「はい」と素直に引けれると言う事なんです。私しは成り行きを大切にすると言う事はそう言う事だと思うんですよ、そういう成り行きになってきたわけです。
 咄嗟にあたしが広子先生の舞を見た瞬間、「これは弘子先生にお願い、先生にお願いした方が素晴らしい」とあたしが思うたんです。だからそれはもう、その言わば直子の心もおもんばからずにあたくしがその、「どうね直子ちゃん。あんた折角稽古したばってんか、ひろ子先生にもうてもうたら」後で言うね、だから納得させたからと言う様な、その事ならば、まあ穏やかに納得したかも知れん。けどもとっさそこにおったから、直子はそれを素直に受ける事が出来なかったけれどもです。
 そういう時に「はい」と言うて聞けれる事、その事がね信心なんです。「もうこの事はあんた一生一代の、これは素晴らしい名教訓と言うか、あんたが幸せになって行く土台になる事だろう」と。してみると、「舞いが舞えなかったような事じゃない、この教えであんたの一生を支配する。この生きて、生き生きとしてあんたの一生を、有り難いものにしていく土台になるならば、これは大変に有り難いものになる」と言うて、まあ話した事でした。私しはそういう時にですね。
 私し共がいわゆるぷりっとしたり、イライラしたり、腹立てよったり、せずに受けれる稽古なんです信心とは。「はあそうですね」と言えれる事なんです。もうほんとにその時を、自体そのものをですね、大事にすると言う事はそう言う事。真の道を踏んで行くと言う事は、ただ今あたしが直子の例を持って申しましたような全ての事にそういう生き方をさして頂くと言う事がですよ、真の道を踏んで行くんです、ですからやはり、ぽんとその、例えば打ち込んで来られたら、それこそ自分の身をかわす暇がない。
 自分の心の上にそれをほっとこうそれを豊かに受ける余裕が無い。そこでその余裕を頂かしてもらう、その時に言わば太刀風三寸でとこう身ををかわさして頂けれる、どんな事柄でも有り難い方へ有り難い方へと頂いて行く、行こうとする稽古が必要になってくるわけなんです。けれどもねその事を言うならこうよく考える、「はあそういう時に、はいと言えれる心が頂けたら、ほんとに成程人間が、引っかからずに触らずに幸せな生き方が出来るだろうなあ」と思うでしょうが。
 それをぐうぐう思うてから「ようし、あの事は忘れん。」ちゅうごたる生き方では人間の幸せにはなれんと言う事です、そういうです、いやどちらへ転んでも有り難い有り難いと受けて行くというかそういう事なんです、そういう言わば自然が、言うならば天地がね、あたくしどもに求められる所の、まあそれを修行と言うても良いでしょう。言わば求められる修行、その本当言うたら神様が、おかげを下さろうとするお働きと、言うた方が良いかもしれません。
 それが分からして頂くと言う事、それが分からして頂く芯から、言わば一切が神愛と言うような頂き方、全てが神様のお働きと頂く頂き方、そこでね、あたくしどもが信心によって分からなきゃならない事はです、「我が身が我が自由にならぬものぞ」と、言う事です。いわゆる、「障子一重がままならぬ人の身である」という自覚、いわゆるこの神様のおかげを頂かなければ立ち行かないという自覚、いわゆるくずの子、我という自覚、そこからね。私しはその体験として生まれてくるのが。
 「成程こういう頂き方があるんだな。こういう頂き方をしていけば人間が幸せになって行けるんだなあ」と言うおかげがそういう心でキャッチして行けれるのです。「疑いを去って信心をしてみよみかげは和賀心にあり」、そういう体験を積ませて頂く所から疑う余地のない、なるほどこの世を素直、素直に受けていけばなるほど、「素直心の一つにて雲の上までも登る道」が開けて来るんだなと言う事が分かってくるんです。天地の子、神の氏子としての例えばお話、例えば説明。
 それをなるほど私し共は「天地の親神様、なるほど親様だな、親神様だなあ」と思われるような、体験を受けて行くと同時にです、様々な角度から道理を以って説かれてね、親神様のおかげであたくしどもが今日、ただ今こうしてお生かしのおかげを頂けておるんだと。そう言う事を理屈の上で言わば、あらゆる角度から話を聞かせてもろうて分からしてもらう。それを実際いよいよ成程と実感的に有り難く受けさして頂く事のために「真の道を踏んで行くのぞ」と言う。
 真の道を踏んで行かなければいけない、神心となりて人に丁寧に話をしていくのが真の道を踏んでいくと。いうならその「おかげを受けたら神心となりて」とこう仰る、そのおかげと言うのがです、自分が日々の体験によってです、「成程親神様だな神様だなあ」と言うその実感をです、分かる事体験と両方あいまって頂いてきた、言わば話しを丁寧にして伝えて行くと言う事。それが「真の道を踏んで行くのぞ」と言う事になる。また真の道を踏ませていく事になる。
 そこの所を金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて違わぬように伝えて行かなければならない、伝えて真の信心をさせるのが神へのお礼ぞ、これが神になるのぞと。この辺の所をまた大事にしないと、人に伝えて真の信心をさせるのが神へのお礼ぞと。神様にお礼を申し上げて下さいと沢山のお供えをする、神様にお礼を申し上げて下さいと言うて御用奉仕をさしてもらう。
なるほどそれも神様へのお礼ですけれども、第一のお礼はね神様の氏子である、いわゆる天地の子であるけれどもその天地の子としての自覚の無い人達にです、その自覚を作っていくと言う事が真の道を踏んでいくのであり、その事が神自分がおかげを受けた神様へのお礼になる、それが神へのお礼なのだ。ほんとにあのお導きの名人て言うのがありますよね、そういう人はやはり徳を受けます。素晴らしいじゃないですか、そう言う、それが神様へのお礼になるだけではない、それが神になるのぞとこう仰る。
 ここはどう言う事かと言うと、それが御神徳を受ける事になるのだと言う事なんです、だから「御神徳を受けたい御神徳を受けたい」とこう言うだけで、御神徳を受けるためにはまず我天地の子であるとしての自覚がね、分らなければいけない、我天地の子であるという事の自覚、それを分かる事のためにです、成程自分で自分の身が自由にならない事であることを分からしてもろうたり。いわゆる成程「障子一重がままならぬ人の身である」と言う事を分からして頂いて、真の道を踏んでいくと言う。
 言わば真の信心をさして頂くんですから、その真の道を踏んでいくその、一つの生き方としてです、本気で成り行きを大事にして行こう。いや、大事にするとはそれを「有り難く受けていこう、尊ばせて頂こう」と、と言う所まで高められてくる。そこの所が稽古である、それがなるほど難しい。「あれがあげん言うたけんこんだもこうも言うてやらないけん」と言うてかたき討ちのような事ば―っかり考えとったっちゃ人間は絶対幸せになれん。だからそれはその時にはもう辛かったかも知れん。
 その時は悲しかったかも知れん。けれどもそれを泣く泣くでも良いから「はい」と素直に受けて行くと言う事なんです。それが段々おかげを頂いて行くと、「ほんとにあの事を悲しい心で受けると言うような事は勿体無かった」と気が付く、「むしろあの事は有り難く受けなければならなかった」と、分かって来る。段々稽古積んでいくに従って、人ならば腹も立てるだろう、悲しくも思うような事すらが有り難いと言う事になってくる。有り難く受けさして頂く事になってくる。
 それはいよいよです、天地の我天地の子であると言う事をわかって、そして今度は体験の上にです、それを頂いて行くと言う尊い信仰、体験がです、そこから生まれて来るのです。「なるほど、あの時はきつかったけれどもです、はいと素直に受けさして頂くと言う事がこのようなおかげに繋がるんだ」と言う事が分かって来るから、有り難い事なんです、言わば有り難い事になってくると言うか、「成程親様だなあ、親神様だなあ」と分かって来るわけです。
 そこからね天地にすがるとか、天地にね願うとか。私しは毎朝この控えに出て参りましてから、天地を拝し金光様の、あのお写真に向かって、お礼をさして貰いましてから、暫く今あの床においてあると稽古を暫く眺めさして貰います。あの慈母観音のね、真っ裸のあの、童子が観音様にあの手の下で、まぁあのすがっておる、合掌しておる姿。その童子の顔を見せて頂いとったら心がほんとにもう心が和んでくるというか、「今日もああいうすがり方でおかげを頂こう」と言う思いがこれに入って来るんです。
 あたしは暫くそれをじっと見せて頂いて、今日一日もああ言う、言わば真っ裸の童子と言う事は赤裸々な私しと言う事だと思うんです。赤裸々に神様にすがって、ある場合には甘えるように、ある場合にはじだんだ踏むように言うてでも良いから、縋ってそれが親だから。親の膝に例えばごそごそ這い上がってくる子供、「ああせからしか」と言うてはねやるような親は絶対ないです、それが「天地の子、我」という自覚がでけんとね、そういう甘え方もじだんだ踏むような事もですね、言えんのです。
不思議に天地の親神様と言う親神としての頂き方が出来るように段々なってくるとですね、もうどう言う事でも願わなければおられないのである、すがらなければおられんのである。そこにね信心の一つの吟味と言うかね、豊かな信心生活があるんです。「こんな事あたしが出来る、これはあたしがやってのけてやろう」と言った様なね、いわゆるそこの所がです、私しは「神より上になると思うな」、とはそう言う事だと思うんです。「お前に何が出来るか。やってみれ」っち。
 ほんとの事を追求してまいりますと、自分ででける事は一事だってない、神様のおかげを、しかし天地の親神様って寛大ですね、私しは今日それを特に感じました。寛大ですから私し共がわがまま勝手に、我がやっていけるようにしとっても分からんのだから、それを寛大な長い目を持って見守っておって下さるのが、天地の親神様です。それをこうやって信心によって分からして頂く時にです、「ほんっとに過去何十年間がわがままな信心生活であったな」と分る、わがまま勝手な。
 それこそ思い上がった生き方であったなと言う事がわかる、今日はね。「神になりても神より上になるとは思うな」と言う事はそう言う事なんです。それも本当にですよ。一切をすがらなければおられんのですよ、家ん中におってもそうなのですけれども、私しがちょっと善導寺まででもあの自動車でね、乗せてもらってまぁやらせて頂く時にもう必ずあたしはここへ来てから、「ただ今から善導寺に出らして頂きますから」その事を願わなければおれんね。
 まるきり自分が行きよるごと思うちから、その思う所に間違いがあるんです。私しはあの、何年か前に御信者さんの、自動車にですね、もうほんとに、あの迂闊だったですよね。ここから乗せてもろうてから、その道路に出ろうとした途端に、こちら側を向こうから、まあ向こうが違反してるわけですね、こちら側を久留米から走ってきたトラックが、ガチャーンとちょっと擦っただけでありました、けれどもですね、こちらの車が少しばかり傷みました。
 それはカチッとこうショックを受けただけでしたけれども、あたしはもうその時以来ですね、「はあ、もうほんとに自分でどん行っちゃならん」と思いましたよ。言わば今月の焦点であると同時に、今年中の言わば焦点でもある所のです、たったこの位の事だからと言うような事でもですね、もう神様はね、あたしには許されなかった。けれども信心の無いもの信心の薄い者は、自分がしても自分が言うても、自分がしてやってもです、長い目を持って見て下さっておるからです。
 それを平気でやって行けてるんだけれども、もう私しの場合、もうお礼もお願いもせずにこの人が善導寺行きよるけんでと言う、もうそういう小さい事でも許されなかったとあたくしは思いました。もう以来あたくしはその、これは車に乗る時だけはないですけれども、その事を願うてほんとに神様のお許しを頂かなければ、車に乗らない事に決めておるのです、そう言う様な事をです、私しは疎かにしてはならないとう事なのです。「こればかりの事なるからによからんと心許すに過ち起こる。」
 もう自分が出来ると、もう神様のおかげを頂かなければ出来る事ではない、言うならばちょっとしたそれはもう既に思い上がりなのですよ。あたしは神へのお礼ぞと、神になるのぞと、それが神になるのぞと「神になりても神より上になるとは思うな」と言う事はそういう事だと思うんです。あたしは神様の上になると言う様なことじゃないけれども、これは自分で出来ると言うような思い方が既にもう神より上になっておる思い方なのであります、「神様のおかげでなされるんだ」と。
 今日は私しはこの61節を、まあ言うならば一言一句です、もう今まで頂いた事の無い新たな角度から全部今日は聞いて頂いたつもりです。いよいよどうぞ今日、この所をね一つもういっぺん、あのよく検討していって下さいませね。神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話しにしておく、尽きぬおかげを今日は神徳と申しましたね、信心しておかげを受けたら神心となりて人に丁寧に話をしていくのが真の道を踏んでいく、真の道を踏んでいくと言う事を私しあの直子の例を持って申しましたですね。
   どうぞ。